のびパパ軽井沢日記:#5ヨーロッパの「運河」に似た御影用水は・・・

 

 

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(写真は「レジーナリゾート軽井沢御影用水」のものです)

 初めてタイを訪れたのは1975年12月、会社派遣の修業生として香港大学で北京語の勉強を始めた年のことだった。
 たまたまオリエンタルホテルのプール周辺で開催されていた泰国三井物産のクリスマスパーティに参加させてもらった。チャオプラヤ川を渡る風が救いだったが、汗をかきながらのクリスマスは初体験だった。
 その後、再訪のチャンスはなく、30年経った2005年9月、三井石油開発バンコク事務所長として赴任した。
 30年という時間が経っていたが、タイは「変わっていない」というのが率直な印象だった。

 確かに経済発展が街の様相を変えている。高層ビルは乱立し、高速道路の充実が「渋滞」を部分的に解決している。少なくともバンコクに住む人々の暮らしは豊かになっていた。
 だが、1975年に感じた、この国の真の発展のためには「治水」が必要、との思いを変えさせるほどの変化は起きていなかったのだ。

 夏に大量に降った雨が南下し、バンコクの北に位置するチャオプラヤ川流域の町や村を水浸しにする洪水は、数年に一度の頻度で発生している。
 筆者が親しくしていたエネルギー省幹部の実家も、床上浸水ならぬ1階浸水に見舞われ、水が引くまで1週間ほど2階での生活を余儀なくされたそうだ。お見舞いの辞に対しては「何年かに一度はあることだから」とケロッとしていた。

 チャオプラヤ川には、バンコク市内でも「堤防」がない。
「ホンダ」のタイ工場などが操業停止に追い込まれた2011年10月の洪水のときには、王宮や政財界の中枢機構がある中心部への洪水被害を避けるべく、バンコク北部に一時的に土嚢などを積み上げ、溢れる川の水を意図的に東西の田園地帯に流出させたほどだ。

 そもそもタイ語には「堤防」を意味する単語がない。
 タイ語の勉強を始めて間もないころ、不十分なタイ語で先生に「堤防」を説明するのに四苦八苦したことを覚えている。

 中国でも日本でも、おおよそ大きな川には「堤防」がある。
「治水」こそが農業生産力を高め、国庫収入を増やし、一般庶民の生活向上に利するものだったからだ。

 人々は、自然の力に畏怖しながらも、自らの人生のために工夫をこらし、自然を味方につけようと努力し続けている。
 これは、世界全般に共通した現象だろう。

 ところで、軽井沢を歩いたことのある人は、あちらこちらに用水がめぐらされていることに気が付いているだろう。
 その象徴的存在が御影用水だ。
 だが、御影用水が江戸時代の1650年代に建設されたことを知る人はどの程度いるだろうか。

 Wikipediaによると、1650年に小諸藩主から廃村を下賜された柏木小右衛門が、浅間山麓の水源から水を引いて農作を可能とするべく、1653年に建設完了したのが今日の御影用水だ。
 柏木小右衛門の努力で復活した御影新田村は、流域一帯での米生産が増加し、1699年には幕府直轄の天領となったとのことだ。
なお水源は、皆さんご存知の千ヶ滝と湯川である。

 人々の知恵と工夫は留まることがない。
 浅間山麓に降る雨が地下に潜り、数年を経て地上に表れ千ヶ滝や湯川に流れこんでいるのだが、年間平均水温は13.2℃ときわめて低い。
 このままの水温では稲作に適していない。
 春先からでも稲作に使用できるように、水温を上げる工夫がなされた。
 それが1970年に完成した「御影用水」として知られる「温水路」なのだ。

 写真からも分かるように、川幅は広く、水深は浅い。
 ワンちゃんたちが喜んで遊べる浅さだ。
 筆者が「キャボット・コーブ」(現在は移転済み)での、如何にも軽井沢らしい豊かな朝食を楽しんだあと散歩したときも、水底から日の光が反射していて、一幅の絵画を見るような心地だった思い出がある。
 この、心安らぐ全長900メートルの「温水路」は、観光用ではなく、実は降り注ぐ太陽により水温を上げるように工夫されているのだ。

 軽井沢を訪れる人にはぜひ、時間を割いて散策して貰いたい場所の一つである。

 
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