のびパパ軽井沢日記:#1教えたくないけど、知ってほしい「軽井沢観光スポット」

のびパパ軽井沢日記:#1教えたくないけど、知ってほしい「軽井沢観光スポット」

 

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   ほぼ同じ時期に軽井沢生活を始めた櫻井泰斗・ユウコ夫妻の各種発信は、非常に興味深く拝見させていただいている。最近、ご夫婦は推奨する「軽井沢観光スポット」を初級編から中級編、上級編、そして超上級編として配信し終えたばかりだ。
 2014年夏から過ごし始め、すでに8年目を迎えている僕たちは、観光客とはいえず、移住者でもないが、一年の半分ほどを毎年軽井沢で過ごしているので、ある種の生活者といえるだろう。
 したがって、櫻井夫妻の推奨される「軽井沢観光スポット」シリーズは、家族や友人・知人たちが遊びに来た時にご案内する際の「ガイダンス」として楽しく拝見させていただいた。

 実は僕には、観光客の皆さんには殺到して貰いたくないが、存在を知っていて欲しい場所が2つある。
 それらが「シリーズ」に入っているのかどうかも気になっていた。

 一つは「超上級編」の中で紹介されていた「中軽井沢駅」と同じ建物の中にある「中軽井沢図書館」である。さらに言えば、分館としての機能を果たしている「離山図書館」も併せた「軽井沢図書館」と言った方がいいだろう。
 土地柄、文学系の書籍が豊富で、総所蔵書籍数は13万冊強。国立国会図書館の4500万冊は及ばないが、人口2万人強の町立図書館としてはそこそこの充実ぶりである。
 本を借り出すためには「利用券」を作る必要があるが、免許証か保険証など氏名・住所が確認できるものがあれば、その場で作ってもらえる。
 新聞もほぼ全紙読むことができる。各種雑誌もそろっている。また、古いものが多いが、DVDで映画を見ることもできる。
 図書館とはまさに、この上ない「コストパフォーマンス」のエンタメ会場なのだ。
 もっとも、日常生活において図書館を利用したことがない方も多いだろうから、紹介されたとしても「観光客が殺到する」ことはないだろう。

 もう一つは「超上級編」でも紹介されなかった、正面に雄大浅間山が鎮座している大日向のレタスやキャベツを栽培している畑地帯である。「コロナ」がまん延する2年前までは、上皇上皇后両陛下が毎夏、散策されるお姿がテレビニュースで放映されていたので、ご記憶にある方も多いのではないだろうか。
 実はすぐそばに、昭和22(1947)年に昭和天皇が巡幸された際に読まれた和歌の歌碑がある。後日、上皇陛下も皇太子時代に上皇后と共に訪れたと、雨水にさらされた歌碑の裏に刻まれている。

 浅間おろし つよき麓に かへりきて
 いそしむ田人 たふとくもあるか

 この歌の真意を理解するためには、背景をなす歴史を知る必要がある。

 昭和天皇は、日本がいまだ戦火から復興の途上にあった昭和22(1947)年、この地を訪れ、開拓にあたっていた人々を激励された。これは、その時の歌である。
昭和天皇が「たふとくもあるか」と称えた「田人」とは、南佐久郡大日向村から国策「満蒙開拓団」に加わり、満洲大日向村を建設したものの敗戦により帰国した人々だ。彼らには帰国しても村に居場所はなかった。なぜなら「食えない」から村の半分近くが開拓団に加わり、「分村移民」のモデルとまで言われた土地柄だったからだ。帰国した当座こそ心よく迎え入れてくれた親族の人々も、滞在が長くなると明らかに困惑するばかりだった。そこで政府は、再び国策により帰国した数多くの開拓団民のために、全国各地に開拓村を作ろうとした。その一つが、軽井沢町長倉の地に開かれた、新たな「大日向村」だ。
湿度が高く、火山灰に覆われ、火山堆積岩と松の根株に埋め尽くされた土地を開拓することが、彼らの使命だった。いや、生き延びるために、痩せた土地を農作物を育てられる農地にしようと「田人」たちはまさに苦闘していたのだ。

上皇陛下は毎夏、ご来訪されるたびに大日向公民館で、今なお存命の開拓民の方々と懇談されていた。昭和天皇と同じく、激励されることを自らの任務とお考えになられていたのであろう。

 こうして開拓された3つ目の「大日向村」は、今では軽井沢町大字長倉字大日向の居住地区、畑、あるいは浅間台や千ヶ滝西区の別荘地、はたまた全寮制国際高校「ISAC」のある浅間テラス別荘地などに変貌している。
 人々は、こともなげにこの地で生活している。

 華やかな観光地、避暑地である軽井沢には、数多くの歴史と共に、時代に翻弄された庶民の苦闘の足跡がかくのごとく残されているのだ。このことを、より多くの人々に知ってもらいたいと切に願う。