のびパパ軽井沢日記:#6バックで駐車は余所者?

〈住んでいる環境が性格・行動に大きな影響を与えている〉

 と、大上段に構えたが、これは高校時代に『風土』(和辻哲郎、1935年)を読んだときの衝撃を言語化したものだ。
 感情の起伏が激しく、独りよがり、だが、真剣に生きる目的を模索していた青年のびパパは『風土』を読んで、大学で人文地理学を勉強しようと思い立ったのだった(弊著『超エネルギー地政学』「エネルギーフォーラム社」2018年刊、の「はじめに」参照)。

 たとえば・・・。
 ヨーロッパの農民は、一日の労働が終わると鍬や鋤を農地に置いたまま帰宅する、なぜなら乾燥しているので毎日手入れをしなくても錆びることはないからだ、というのだ。
 本当なのだろうか?

 それからおおよそ20年後、筆者はロンドンにいた。単身赴任だった「香港修業生」に次ぐ、二度目の海外だが初の家族帯同勤務だ。
 当時、筆者が所属していた「三井物産」石油部では、ロンドンでの初の海外勤務者は、会社規定で家族を呼び寄せられる3か月後までの期間、まずはイギリス人家庭に下宿することを不文律としていた。代々世話になっているユダヤ人、バーニー爺さんのところに、である。短期間だが、イギリス人の日常生活に慣れるため、とされていた。
 筆者が着任した1982年末、バーニーさんのところは満杯だった。石油部からの研修生は長期滞在していたし、審査部の同期は2日ほど早く着任していた。
 バーニーさんは姪のバーバラさんのところを紹介してくれた。バーニーさんのところからさほど遠くない、地下鉄「コックフォスター」駅から徒歩10分くらいの、いわゆるディタッチド・ハウスと呼ばれる一軒家だった。バーバラさんは数年前に弁護士だった夫を亡くしており、二人のお子さんは、息子さんも娘さんもオクスフォード大学で勉学中だった。
 筆者がお世話になって初めての週末、二人はそれぞれのパートナーを伴ってサンデーディナーにやってきた。バーバラさんが食事の用意をしているあいだ、みんなはカードをして遊んでいた。しばらくして、バーバラさんに「テーブルに」と呼ばれた。子供たちは席を立って、テーブルに向かった。だが、遊んでいたカードはそのままである。散らかったままなのである。
 筆者はびっくりした。えッ? 片づけないの!
 いわば、初めての「カルチャーショック」だった。
 その後の観察で気が付いたのは、当時「ラビットハウス」と揶揄されていた平均的日本人の家屋と異なり、一般家庭でもイギリス人の家は、たっぷりとスペースがあるので片づけなくても困ることはない、ということだった。

 この経験が下敷きとなっているのか、どこに行っても住民の行動と「風土」との関係に敏感になっている。
 たとえばサラリーマンを卒業してから数年、一年の半分ほどを軽井沢で暮らすようになっているが、いくつかのことに気が付いている。日課となったおおよそ100分の散歩と、週に2~3回出かける「ツルヤ」などでの買い物時の観察結果である。
 今日は、そのうちの一つをご紹介しておこう。

 軽井沢にいる人は、「地元民」「別荘族」そして「観光客」と、おおよそ三つのグループに分類できる。
 「別荘族」も、年に数日しか来ない人もいれば住民票を移している人もいる。僕のように「半分くらい」という人もいる。夏の期間だけ「店」を開く人々もいる。さらに最近は、リモートワークの普及と「風越学園」の誕生もあって若い「移住者」も増えており、三グループに分けるのは単純化しすぎかもしれない。
 だが「ジモピー」と筆者が呼ぶ、軽井沢生活の長い人と、都会生活が長く、軽井沢に「来たばかり」の人とでは、行動パターンに大きな違いがあるのだ。

 「ジモピー」は、駐車場で迷うことなく頭から突っ込む。「来たばかり」の人は、間違いなくバックで駐車する。
 理由は簡単である(と、のびパパは納得している)。
 軽井沢では、いや、都会を離れた自然豊かな場所では、駐車スペースからバックで出ることが苦ではないからだ。車も人も少なく、スペースがたっぷりあるので、バックで出ても困難を感じることはほぼないのだ。
 都会では、たとえば筆者の自宅そばの私営駐車場では「頭から駐車してください」との呼びかけ看板があるところでも、人々はバックで駐車している。なぜなら、駐車場は狭く、車も人も往来がそれなりにあり、バックで出ようとすると注意を向けなければいけないところが多すぎて「面倒くさい」からだ。
 ちなみに「頭から駐車してください」との呼びかけ看板は、面した住宅の庭先にある植物に排気ガスが当たるのを避けたい、との希望からなされているものだ。残念ながら、わずかな草花は日々、排気ガスを浴びている。

 別荘地帯を散歩していると、駐車場に2台の車を停めているところが結構ある。しかも、ナンバープレートには同じ数字が並んでいる。1台は「ベンツ」「BMW」あるいは「レクサス」などの高級車で、「品川」など首都圏の陸運局登録である。もう一台は国産車で「長野」登録となっている。
 昨年は「コロナ」禍の中、ハラスメントを避けようと、首都圏のナンバープレートだが「長野県民が運転しています」とのステッカーを張っている車をよく見たが、どうやら「2台所有」が新しいステータスシンボルになっているようである。

 かくて「ツルヤ」で「長野」ナンバーの車を見ても、これすべて「ジモピー」と勘違いしてはならないことがご理解いただけるであろう。「長野」ナンバーでもバックで駐車していたら、おそらく「余所者」と考えていい。決して「ジモピー」ではない。
 だから何だ、と言われたら・・・
 何でもないんだけどね。

 えッ? のびパパはどうしているか、って?
 エヘン、「ツルヤ」ではバックで駐車していますが、「カxx」など空いているところでは、躊躇なく頭から突っ込んでいます。
 はい「半ジモピー」なんです。
 チャン、チャン。

 

のびパパ軽井沢日記:#14 いつの日か、軽井沢「ハンナフラガーデン」でお茶を・・・

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「ハンナフラガーデン」HPより

 恒例の「100分散歩」コースの一つに「千ヶ滝ルート」がある。正確に言うと「千ヶ滝西区ルート」だ。

 のびパパ夏の軽井沢生活は2014年7月、「千ヶ滝西区」にある小さなログハウスをレンタルすることから始まった。したがって「千ヶ滝西区」の中は、まさに縦横無尽に歩き回った。もちろん「新からまつの森」、さらに奥の「浅間テラス」も制覇している。ハルニレテラスにも何度も足を伸ばした。

 一帯には種々さまざまな別荘があって、歩いているだけでも楽しい。

 特に、ガーデニングがお好きな方の別荘は、外から眺めるだけで心が洗われるような心地がする。

イデア的感性」の持ち主であるのびパパでもそうなのだから、ガーデニングをするために退職後、別荘を建てた友人S夫妻には、たまらなく魅力的な一帯だろう。

 

 S夫妻とは、数えたら40年ほどの付き合いになる。

 最初のロンドン勤務時代、南のチズルハーストエリアに住み、子供たちが同年代だということもあって、彼らを含めた4家族が特に仲良くしていた。帰国後も交友は続き、「コロナ」で叶わなくなるまではほぼ毎年、4組の夫婦そろって温泉に泊まり込み、来し方行く末、あらゆることを語り合うのを年中行事としていた。

 

 4年前の5月末、S夫妻からの誘いでイギリス旅行に出かけた。コツウォルドでイングリッシュガーデンを1週間楽しみ、ロンドンに戻ってからの1週間は別行動だった。S夫妻は2度目のロンドン勤務時代、ロンドン南西部のリッチモンドに居を構えており、時期は異なるが僕たちの2度目の住まいは、中心部のセントジョーンズウッドだったからだ。それぞれのセンチメンタルジャーニーの目的地が異なるので、こうしようね、ということになったのだ。

   彼らはリッチモンドのホテルに泊まり、僕たちはセントジョーンズウッドからリージェントパークをはさんだ反対側、地下鉄グレートポートランドストリート駅のそばのホテルに泊まった。ちょうど同じタイミングで、息子夫妻がロンドンに遊びに来ていたことも一因だった。

   コツウォルドを歩いていて、Sの「ガーデニング」志向がホンモノであることを知った。いくつものガーデンを見学して歩いたが、費やす時間がハンパではないのだ。僕たちが30分で満足するところを、放っておいたら1時間でも1時間半でも眺めている。

 

   かくて軽井沢生活を始めたS夫妻は、ガーデニングに精を出している。まだ東京で用事があるので、行ったり来たりが多いのだが、軽井沢での時間の大半をガーデニングに費やしているのではないだろうか。「100分散歩」の折に寄らせて貰うこともあるが、季節の花々が咲き乱れ、こじんまりしたイングリッシュガーデンの態をなしていて、40年以上のサラリーマン生活ののちの3年間で、これだけのことができるのか、と感嘆している。

 

   S夫人からワイフに「戻ってきました」と連絡があったのは2,3日前のことだ。その折「前から気になっていた軽井沢のガーデン、名前がわかった。ガーデンカフェをやっているようなので、ぜひ行ってみたい」というのだ。それが「ハンナフラガーデン」だった。

   見ると、僕たちが歩いているルート沿いにある。ああ、やはりあそこか、というのが率直な感想だった。

   春から夏にかけて、散歩している僕たちの目を楽しませてくれるガーデンだ。確か5月の連休のころ、ガーデン内に客人がおり、お茶を楽しんでいる様子を見た記憶がある。

 

   さっそく、メールで「予約希望」を伝えてみた。だが「いまは休業中。営業予定日が決まりましたら、FB等でご案内します」とのことだった。

「分かりました。明日、恒例の100分散歩で友人夫妻と外から楽しませてもらいます」と返事した。

   かくて9月12日の今日、S夫妻を誘って「100分散歩」で「千ヶ滝ルート」を歩いた。戻ってPCを見たら、メールが入っていた。「終日庭仕事をしておりますので、もしよろしければお立ち寄りください」と。発信時間を見ると、ちょうど僕たちが通り過ぎたころだ。

 残念!


 この「すれ違い」も人生。

 

「去るものは追わず、来るものは拒まず」をモットーとするのびパパは、次の機会の訪れを信じて、溜まっているエネルギー関連ニュースを読みこなすべく、PCにしがみついたのでありました。

のびパパ軽井沢日記:#13 浅間山噴火による巨大な火山石は・・・

 

 朝方まで残っていた雨が上がり、久しぶりに青空が広がった2021年9月9日の午後、恒例の100分散歩に出かけた。
 予定とおりというべきか、あちらこちらで別荘や住宅の新築工事が再開している。

 軽井沢町では毎年、夏を迎えると関係者に「工事自粛」を呼び掛けている。
 たとえば今年も、公式ホームページに7月1日「夏季工事の自粛にご協力ください」と題して、次のような呼びかけを掲載していた。

軽井沢町では、静養に来られる方の静穏の保持や、工事車両による渋滞発生の抑制のため、工事の自粛期間を定めております。
 関係する皆さんのご協力をお願いいたします。

 夏季工事の自粛期間:7月25日~8月31日

 (以下、略)〉

 昨年と今年は「コロナ禍」により来訪者が極端に少なく、地獄のような交通渋滞は発生していない。だが、例年の混乱ぶりを知る身としては、これは必要な措置だ、と納得している。
 また、都会の喧騒を離れて、静かに避暑生活を楽しみたい人々にとっては、工事車両の行きかうさまや工事音による静謐破壊は、できれば避けてもらいたい、というのも首肯できるところだ。

 かくて9月に入り自粛期間が終了し、あちらこちらで工事が再開している、というわけだ。
 もちろん、すでに外装は完了していて内装にとりかかっているところもあれば、ようやく外装にとりかかった、あるいは土台のコンクリート工事が完了したところで中断していた、というところもある。
 中には、開発業者が土地造成の段階から作業を再開していると見られるところもある。

 今日、あまりの気温上昇(昨日より10℃上昇!)にTシャツ1枚になって歩きながら見かけたのは、写真のように土地を掘り返している過程で大量の、きわめて大きな火山石を掘り出し、とりあえず隅っこに積み上げている工事現場だった。
 のびパパは、あぁ、これだな、と思った。

 2021年7月17日本欄に掲載した『のびパパ軽井沢日記:#1教えたくないけど、知ってほしい「軽井沢観光スポット」で紹介した昭和天皇行幸時に詠まれた歌とは、まさにこのような光景を目にしてのものだったのではないだろうか。第三の「大日向村」開拓に汗を流していた「田人」は、松の根と浅間山噴火による火山石を掘り返し、耕作できる土地にすべく奮闘していたのではないだろうか?

 浅間おろし つよき麓に かへりきて
  いそしむ田人 たふときもあるか

 そういえば30年ほど前、こういうことがあった。
 ニューヨーク勤務時代の話である。
 前任者が雇用したオイルトレーダーたちが起こした会社は、軽油などの卸売りを生業としていたが、ある日、フィラデルフィアの古い製油所を買収したいと言ってきた。だが、調べてみると、資産譲渡が完了したその日から、すべてのリスクは買い手側が請け負うことになっている。
 環境汚染に対する認識が、今と比べるとほとんどない時代に建てられた製油所である。操業開始後、何十年もが経過している。これまでの期間、いつ、どこで、どのような漏油があったのかわからない。土地汚染の可能性は極めて高いが、その「程度」は知れない。記録もないので、調べようもない。それで「無限責任」を負う訳にはいかない。
 当然、却下した。

 土地には歴史がある。
 そこで暮らした人々の生活の跡がある。
 良きにつけ、悪しきにつけ、我々はその歴史の上で生きていかなければならない。

 あの巨大な火山石、いつの日かどこかの別荘の庭に置かれることになるのだろうか。

のびパパ軽井沢日記:#12 川端康成「別荘」は「ブループラーク」を拒否していた

 

 今日(9月7日)昼ごろ、車を運転していたら「FM軽井沢」が「軽井沢町川端康成別荘の保存を断念」というニュースを伝えていた。
 帰宅して検索してみると、全国紙「朝日新聞」もこのニュースを報じていた(2021年9月7日10:30『川端康成が「みづうみ」執筆の軽井沢の別荘取り壊しへ 町が保存断念』https://www.asahi.com/articles/ASP967332P96UOOB005.html)。

 ニュースの要点は、藤巻進町長が神奈川県の不動産会社に電話し、解体費用を軽井沢町で負担し移築保存することを提案したが、予算確保の議会決議や解体に数か月かかることから、決議できないリスクに加え「取得のために借り入れた金融機関への金利支払い」があるとし、拒絶された、ということだ。
 やはり、公的価値(があるとして)を守るための費用負担を誰がどうするのか、という本質問題にぶちあたったというわけだ(「のびパパ軽井沢日記:#10 ノーベル賞作家 川端康成の元別荘を保存しよう・・・」https://note.com/nobbypapa1948/n/n6c350f7000df参照)。

 以前にご紹介した「軽井沢新聞」ウェブ版『ノーベル文学賞作家川端康成の別荘売却、解体か』(2021年8月11日、https://www.karuizawa.co.jp/newspaper/news/2021/08/post-204.php)によると、当該別荘は「軽井沢町ブループラーク認定候補に挙がったが、遺族が断った」とのことだ。

 そもそも「ブループラーク」とは何だろうか。
 
 ロンドンに住んだことのある人、あるいは旅行で訪れたことのある人は、町のあちらこちらの古い建物の壁に、歴史上の著名な人物が、たとえば200年前にこの地に住んでいた、と伝える「ブループラーク」を目にしたことがあるだろう。石造りの建物だからできる、ともいえる制度だ。
 155年前の1866年に始まったこの制度は「死後20年、もしくは生誕100年」以上の人物で「人類の繁栄と幸運に重要かつ積極的な貢献をした」人が対象となっているそうだ。さらに「非凡かつ傑出した個性を持った人物」で、国民の多くがそのように認識するに値する人物であることが要件とのことだ。
 たとえばロンドン市内では、小説『クリスマス・キャロル』の作者チャールズ・ディケンズや『1984年』ジョージ・オゥエルが住んだところ、あるいは2年間留学していた夏目漱石の「下宿跡」を知ることができる。のびパパも「重力」を発見した物理学者アイザック・ニュートンや「種の起源」で進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンの住居跡に遭遇したときには、歴史上の一大事件に立ち会ったような、奇妙な興奮を覚えたものだ。
 155年の歴史のあるイギリスの「ブループラーク」対象物件は、ロンドン市内だけで800余りといわれている。

 これを真似たのか、軽井沢町では平成28(2016)年に「ブループラーク」制度を設けたそうだ。だが2014年夏以来、一年の半分くらいを軽井沢で過ごしているのびパパだが、浅学菲才にして目にした記憶はほぼない(「浅間神社」は、100分散歩「追分コース」のおり、必ず参拝し「コロナから無事でありますように」と祈願しているお宮さんなので、次回探してみよう)。

 なお、選定基準は次の通りとなっているそうだ。

〈1.軽井沢町にゆかりがあり、古くから大切に保存・活用され、町内外の方々に愛されてきた建物
2.所有者、滞在者、建築家、施工者のいずれかが著名な人物であるもの
3.歴史的なエピソードを持つ建物、文芸作品などのモデルとなった建物
4.軽井沢の町並みの形成に大きく寄与してきた建物
5.人的交流、文化形成、スポーツ振興などに貢献した造成物
【付帯条件】 ●改築、復元新築されていても面影が残されていれば可 ●公共施設、個人邸宅、個人別荘、商業施設、造成物のいずれもが対象。この基準にあてはまる建造物を選定 する。建築後何年などの縛りは設けず、町に残していくべき建造物を選定する〉

(出所:「軽井沢新聞」2019年4月『「軽井沢ブルー・プラーク」今年は20件』https://www.karuizawa.co.jp/newspaper/medias/uploads/1904_06pdf.

 ロンドンには155年間で800件あまりの「ブループラーク」が掲げられているが、軽井沢町では2016年以降、5年余りの間に99件が認定されているそうだ(軽井沢町公式ホームページ『軽井沢町ブループラーク制度について』2021年3月30日更新、https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1526456926037/index.html))。

 のびパパはリストを眺めていて、これらの建物がすべて前述「選定基準」に合致しているのだろうか、「歴史的意味」があるといえるのはせいぜい数件では、と首を傾げている。どう見ても単なる「お店の宣伝では?」と思えるものも多いし、「駅」だとか「公民館」が対象となるのも如何なものだろうか。

 ロンドンの「重厚さ」と比較すると、付和雷同の域を出ないような気がしてならないのだが、読者の皆さんはどうお考えになりますか?

のびパパ軽井沢日記:#11 軽井沢の9月は炬燵がいるのか?

 

 

 秋雨前線が停滞しているためか、連日雨まじりの暗い日が続いている。

 昨日(9月3日)雨の合間を縫って散歩に出たが、やはり小雨に濡れてしまった。例年、たくさんの栗の実が落ちているところでは、まだ実を結んでいない小粒のものが落ちていた。
 最低気温は15~16℃で、1週間前とさほど変わらない。だが、最高気温は10℃ほど下がって17~18℃しかないのだ。

 ふと、学生時代に読んだ立原道造の日記を思い出した。

 火災で焼け出される前だったと思うが、追分の「油屋」で夏を過ごしていた立原は、ある年の9月に入ったばかりの日、急激に冷え込んだので炬燵を出してもらって暖を取った、と書き残していたのだ。
 9月に炬燵?
 想像すらできず、不思議なまま数十年が過ぎた。

 初めて軽井沢で夏を過ごしたのは、43年間のサラリーマン生活を卒業した2014年のことだった。
 千ヶ滝西区の小さなログハウスを三か月間レンタルし、処女作『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか?』(文春新書、2014年9月)の最終仕上げ作業を行った。
 長いあいだ未使用のログハウスだったので、設営が一苦労だった。大量のカマドウマ様の出現に、ワイフは入居の日に「帰る」と言い出し、なだめるのに苦労した。また、佐久の「ヤマダ電機」や「ニトリ」で電子レンジや電気釜、シーツや夏布団などの必需品を用意し「まるで新婚さんだね」とワイフと顔を見合わせもした。

 初めて友人との夕食に出た夜には、戻ったら周囲に灯りは皆無、まさに闇の中で、ログハウスの入り口にたどり着くのに苦労した。爾来、戻るのが夜になる日は、ログハウスの電灯を煌々と点けたままにして出かける習慣が身についた。
 優雅な別荘生活とはほど遠い毎日だったが、親族や友人知人が何組か遊びに来てくれ、今日に続く、楽しい夏の軽井沢生活を楽しんでいた。

 そして9月に入った。
 秋が急激にやってきた。寒く感じるようになった。ワイフは「帰ろう」という。のびパパは立原の日記を思い出し「ほんとうに炬燵がいるのかどうか、様子を見たい」と頑張った。が、頑張れなかった。なぜなら、生活の前提が夏仕様だったからだ。
 夏布団は、客用のものを二枚重ねにしても不十分だった。寒かった。衣類も、セーターなど持ってきていない。暖房器具など皆無だ。来年は借りられないかもしれないログハウスに、残していく家具の類をさらに増やすのもなぁ。

 その時、のびパパは思い知った。
 重要なのは「絶対温度」ではない、「温度差」だ、と。
 急激な気温の下落に、身体の調整機能が付いて行かないのだ。だから「外」から防御すべく、冬物の衣類や暖房が必要なのだ。さもなければ「温度差」がもたらす「寒さ」に耐えられない。
かくて、数十年ぶりの「疑問」は氷解した。
 2014年9月中旬、レンタル期間を2週間以上も残したまま、初めての軽井沢生活を終えて暖かい東京に戻ったのだった。

 思えば、初の家族帯同海外勤務をロンドンで過ごしていたとき、11月に入ると子どもたちは暗いうちに登校し、暗くなってから帰宅していた。
 ロンドンの緯度は北緯51度30分、東京は北緯35度41分(都庁)、札幌でも北緯43度3分(市役所)でしかない。ロンドンは、日本と比べると圧倒的に北に位置しているのだ。地図でみると、ロンドンと同じ北緯51度30分はサハリン島の中部にあたる。
 ゆえにロンドンと東京の夏冬の日の出、日の入りの時間は、大幅に違うことになる。

 ロンドンで花火というと、ガイ・フォークスの日(11月5日)だ。「火薬陰謀事件の日」とも呼ばれるこの日は、1605年11月5日、ガイ・フォークスを含むカトリック教徒の一味が、国家元首をイギリス国教徒からカトリック教徒に交代させようと暗殺を試みたが失敗し、時のジェームス1世が生き延びたことを祝って始まった、と言われている。
 日本では夏の風物詩である花火も、ここロンドンでは毎年、すでに寒くなった秋の暗い夜に、日本と比べると複雑さも芸術性も皆無の花火を、ドーン、ドーンと何発か打ち上げられるだけなのだ。

 最初は不思議だった。なぜ、夏ではなく秋なのか、と。
 だが、2年目の夏には了解した。
緯度がだいぶ北にあるロンドンの夏はいつまでも明るい。退社後にゴルフに行くことも可能だ。のびパパも実際、同僚と回ったことがある。一度だけ、だが。
 6月、7月は夜8時になっても明るいため、友人家族を招いて庭でバーベキューパーティを催すのが恒例だった。
 だから、夏に花火を打ち上げても、明るいので見えない。人々は楽しむことができない。できるとすれば、夜中にやるしかない。それも、ね。

 人々は、住むところにしたがい生活ぶりを変える。どうやったら楽しめるか、工夫しているのだ。
 ロンドンでは、秋が深まってくると「クリスマスセール」が始まる。町は、クリスマスを祝うイルミネーションに包まれる。コンサートシーズンも始まる。
 人々は、暗い毎日を明るく過ごしている。

 軽井沢の冬は寒くて暗くて、年寄りにはつらいのよ、と在住歴数十年の御大がツイッターで洩らしておられた。
 寒がりののびパパは、11月初旬には軽井沢生活を中断して東京に戻るが、移住組あるいはそもそもの地元の人々は、どうやって暗さ・寒さを楽しみに変えて乗り切っているのだろうか?

のびパパ軽井沢日記:#10 ノーベル賞作家 川端康成の元別荘を保存しよう・・・

 

 

「軽井沢新聞」のオンライン・ニュースサービス「Karuizawa.web」によると、ノーベル賞作家 川端康成の別荘を保存しようという動きが活発化しているようだ。
 同紙は、8月11日「ノーベル賞作家 川端康成の別荘売却、解体か」、8月24日「軽井沢観光協会と観光ガイドの会、川端康成別荘の保存を町長に要望」、そして8月27日「『川端康成別荘、町の考えは』全員協議会で質問相次ぐ」と連続して報じ、現所有者の理解と協力を得て、別の場所に移転して保存する可能性があることを報じている。

https://www.karuizawa.co.jp/newspaper/news/2021/08/post-204.php
ノーベル文学賞作家 川端康成の別荘売却、解体か|ニュース|軽井沢新聞|軽井沢Web (karuizawa.co.jp)

https://www.karuizawa.co.jp/topics/2021/08/post-983.php
新着情報|軽井沢Web (karuizawa.co.jp)

https://www.karuizawa.co.jp/topics/2021/08/post-984.php
新着情報|軽井沢Web (karuizawa.co.jp)

 人口2万人強の軽井沢には、1万5千軒を超える別荘がある。また、過去10年間の住宅全体の建築確認申請数は年平均435件だが、そのうちの約7割、297件が別荘となっている。別荘総数は、平成23年度の14,807軒からから令和2年度の15,973軒まで1,166軒増加している。(「令和3年度 軽井沢町の統計 12.建設 https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/12.kensetsu.pdf  12.kensetsu.pdf (karuizawa.lg.jp)」)。 
  もし、建築確認申請されたものがそのまま建築されたとすると、別荘は10年間で2,970軒増加していることになる。つまり、この10年間に約1800軒が「解体」されていることになるわけだ。年平均、180軒だ。

 確かに、のびパパの「100分散歩」でも、もはや「解体」するしかないのでは、と思われる別荘を結構な数、見かける。
 使われなくなった別荘は、まず駐車スペースの雑草から見てとれる。年に数度しか使用しない別荘でも、5月の連休やお盆休みの前には、業者を入れて庭と共にきれいに掃除されるのだが、それが行われなくなっているからだ。
 問題はこれからだ。
 たとえ庭や駐車スペースがきれいに掃除されていても、屋根に枯れ葉が大量に残っている別荘は「解体」予備軍だ。何年かすると屋根に草が生え、木が生えてくる。1メートル以上も背丈のある木が数本生えていたら、これはもう「解体」するしかない。そういう別荘が、あちらこちらに散在している。

 散歩しているだけののびパパに観察できるのは、前述したような「外面」だけだが、老朽化した別荘は「内部」にも多くの問題を抱えていると思われる。メンテナンスを続けても、湿度の高い軽井沢ゆえに建物の寿命に勝てないケースが多々あることは想像に難くない。
 たとえば「Karuizawa.web」が報じている「作家 北杜夫さんの別荘 保存のため移転を検討中」の中に、次のような記述がある。

〈現在の所有者は北さんから購入し、老朽化による修繕を重ねながら十数年利用してきたが、ついに来春、建て替えることになった〉
〈北さんが購入した時も既に建物の傷みが進んでおり、2階へは煩雑に上がらず、客室として使用する状態でした。その頃から修繕を繰り返してきましたが、近年は損傷が激しく、維持に多大な修繕費用がかかることがわかり、取り壊しの判断に至ったようです〉
(2021年8月10日、作家 北杜夫さんの別荘 保存のため移築を検討中|ニュース|軽井沢新聞|軽井沢Web (karuizawa.co.jp) https://www.karuizawa.co.jp/newspaper/news/2021/08/post-203.php

 何代か前の縁者が購入した別荘を、相続した人が使うこともなく、また将来使う予定もない場合、売りに出すのは普通のことだろう。また、元の所有者と縁もゆかりもない人がその物件を購入するのは、住める程度に手を入れるか改築するか、あるいは解体して新たに自らが気に入ったデザインの別荘を建てるためだろう。
 これらのことに非を唱える権利は誰にもない。
 もし、その別荘を維持・保存することに価値があると主張する人がいるならば、その人が維持・保存の費用を負担するのが筋というものだ。

 いや、今回の川端康成別荘問題にみられるように、有名人の元別荘の持つ価値、すなわち文化的価値は社会全体が享受するものだ、という主張が通るのであれば、維持・保存は「公的費用」で賄うことになる。「公的費用」とは、端的にいえば税金だ。皆さんが国、あるいは市町村に支払っている税金を、どのように使うのが国民、住民全体のためになるのか、という観点から、予算が作成され、支出されていくものなのだが、その一部を投入しよう、ということになるわけだ。
 文化的価値は目に見えない、あるいはお金に換算できないものが多いが、具体額の算出は難しいものの間違いなく経済的価値を惹き起すものもある。
今回、観光協会や観光ガイド協会が「保存を町長に要望」したのは、ノーベル賞作家「川端康成の別荘」が観光客を呼び寄せる機能を持ち、ひいては軽井沢観光業にプラスの経済価値をもたらすと考えているからだろう。
 たとえば有島武郎の元別荘「浄月庵」は「軽井沢高原文庫」内に移転され、向かい「タリアセン」隣地に案内板、カフェ「一房の葡萄」となった記念館があり、観光客をひきつけている。

 数十年前「文学青年」だったのびパパだが、川端康成の作品を読んだ記憶はない。
「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」の書き出しで知られる『雪国』(1937年)も、山口百恵が「踊り子」役で何度目かの映画化がなされた『伊豆の踊り子』(1926年)も、作品そのものを読んだ記憶はまったくない。いや、興味もなかった。
 ノーベル文学賞受賞作家とはいえ、川端康成が現代の人々の関心を呼ぶものかどうか疑問だが、いずれにせよ、今後の展開が注目される。

 翻って考えれば、社会全体が利益を享受するものだから要する費用はすべて税金で賄う、というのは、今回の「コロナ」への対応そのものだ。「コロナ」対策に費やされている税金の額は、すでに膨大なものとなっている。まだまだ終息への道は見えず、さらにどれほどの費用を必要とするのか、予測できない。それでなくても国家の財政赤字は巨額な金額になっており、どうやって返済するのか、返済できるのか、皆目見当がつかないのが実情だ。
日本の累積赤字はGDPの約2倍、先進国の中でもとびぬけた多い水準となっている。

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出所:財務省「これからの日本のために 財政を考える」

 財政素人ののびパパに考えられる方策は「ハイパーインフレ」による「実質帳消し」でしかない。そうなったら、毎日の生活はどうなるんだろうか。
近年のベネズエラ、戦後の日本が実例か。

 あッ、だから軽井沢の別荘が売れているのか!?

のびパパ軽井沢日記:#9 秋茜も、ススキの姿も・・・

 

 

東京が猛暑に襲われている今日8月27日、軽井沢も27℃まで気温が上がった。
暑い。
ひとしきりルーティンのデスクワークを片付け、恒例の100分散歩に出ると、往く夏を惜しむかのようにミンミンゼミが喧しく鳴きしきる中、秋茜が飛んでいた。

のびパパが小学生のころ、昆虫採集が夏休みの宿題だった。
8月末になると、東京郊外で採集できる昆虫の種類は限られてしまう。
だから新学期初日に提出する宿題は、少々さみしいものになってしまっていた。
もっと早く始めればいいのだが、なかなかそうはいかないのが人生だ。

蝉は、アブラゼミの数が少なくなり、ミンミンゼミは姿を見ることがなかった。手に入るのは「オーシンツクツク」と鳴くツクツクボウシだけだった。
蜻蛉は、シオカラトンボやムギワラトンボを捕まえることができた。運がいいと、オニヤンマも昆虫採集に付け加えられた。
だが、8月中、秋茜が飛んでいることはなかった。
秋茜は、9月も半ばが過ぎ「たしかに秋になった」ことの証のようなものだった。

そういえば、ススキの姿も見かけた。
のびパパは一瞬、たじろいてしまった。
ススキこそ、秋、そのものだからだ。
季語にもなっている。
もう、そんな季節なのだ。

ススキといえば、その昔『昭和枯れすすき』という歌謡曲が流行ったことがある。

♪ 貧しさに 負けた
  いいえ 世間に 負けた ♪

暗い、寂しい歌だが、人心を捉えるところがあったらしく、レコードは150万枚も売れたそうだ。

♪ 今日の 仕事は つらかった
  後は 焼酎を あおるだけ ♪

この二行から始まる『山谷ブルース』は、B面が学生運動テーマソングもどきの『友よ』だったこともあり、それなりに売れたようだ。

♪ 友よ 夜明け前の 闇の中で
  友よ 戦いの 炎を燃やせ
  夜明けは近い 夜明けは近い
  友よ この闇の 向こうには
  友よ 輝く あしたがある ♪

はやり歌は、時代を映す鏡だ。
半世紀前のフォークソングは、明確なメッセージソングだった。

では、いま若者の心をとらえているのはどんな歌だろうか?

♪ 正しさとは 愚かさとは
  それが何か 見せつけてやる

  ちっちゃな頃から優等生
  気づいたら 大人になっていた ♪

こんな歌詞から始まるAdoの『うっせーな』は、「2020年代の若者の本音そのものであるとし、大人への抗議ではなく諦念を歌っている」のだそうだ(音楽評論家、鮎川パテ)。

あるいはYOASOBIの『夜に駆ける』は、次のように始まる。

♪ 沈むように 溶けてゆくように
  二人だけの 空の広がる 夜に

 「さよなら」だけだった
  その一言で 全てが分かった
  日が沈み出した空と君の姿
  フェンス越しに重なっていた ♪

これは「小説を音楽にする試み」第一弾だったとのことだ。

これらから見えて来るのは、今の若者は直截的にメッセージを送ることを「良し」としていない、ということなのだろうか?

ちなみにのびパパの「朝のルーティン・デスクワーク」とは、前日の日記を3冊目の「10年日記」に書き(たった4行なので続けられている)、ニュースをチェックし、特にめぼしいエネルギー関連ニュースは後で読むためにダウンロードしておき、原油先物相場「NYMEX」の終値などをメモし、週に一度「米エネルギー省エネルギー情報局(EIA)」の「週報(Weekly Petroleum Status Report)」のデータを書き写すことだ。これらを「Radiko」でラジオ放送を聞きながら行っている。

長いあいだ聞いていたのは「TBSラジオ」の「森本毅郎スタンバイ」だった。
理由は簡単である。「フェースブック」を介して数十年ぶりに再会した学生時代の仲間の一人が、だいぶ前に「NHK」から「TBS」に転職して当時、まだ何かの形で働いていたからだ。
その彼は今、ふたたび「NHK」で働いている。
これが間接的に影響しているのか、今春から元「TBS」アナウンサーの吉田明世が「Tokyo FM」で朝の番組を始めることを知り、チャンネルを切り替えることにしたのだ。

これは、実に劇的な変化だった。
見える世界がまったく違ってくるのだ。
おそらく両番組が「対象」としている「リスナー層」が大きく異なっているからだろう。
カンタンに言えば「森本毅郎」が60歳台、タレントのユージと二人でMCを務めている吉田明世の「One Morning」は30歳台を主なリスナーとして番組を構成しているようだ。
だから(エヘン)、「うっせーな」もYOSASOBIも知っているのだ。

疑問に思われた皆さん、いちどルーティンを変えて見てください。
新しい世界がきっと、そこにありますから。

さて、と。
たまっているエネルギー関連ニュースを読まなければ。