のびパパ軽井沢日記:#8 もう、秋・・・

 

 

イデア的感性の持ち主」であるのびパパは、世の中の動きに疎い。
たとえば、何がこれから流行りそうか、なんてことはまったく分からない。

「野菜のブーケ」との異名のあるサンドイッチを売る「ポタスタ」をヒットさせていた数年前、「次はメルティですね」と漏らしていた「フレッシュネスバーガー創始者・栗原幹雄氏の話を聞いていると、この人は異星人ではないか、と思ってしまう。今では「ポタメルト」というグリルドチーズサンドイッチなどを売る店を展開しているとのことだ。
新大久保のチーズタッカルビと、どちらが先だったのだろうか?

POTASTA (gpo.co.jp)
POTAMELT (gpo.co.jp)

だが、よくしたもので、僕には「世の中のアンテナ」とでもいうべき参謀が付いている。いや、参謀ではない、ボスだ。
世の中の人たちはどう思うのだろうか、どう動くだろうか、と疑問に思ったら、ボスに聞けばいい。
すぐに分かる。
だいたい当たっている。

あれはいつのことだっただろうか。
子どもたちが実家にやってきて、駄弁っていた時の話だ。
小沢一郎の勢いが止まらず、将来「総理」になるのでは、と噂されていたころだった。
誰かが「小沢一郎は総理になるだろうか、どう思う?」と聞いた。
ボスは一刀両断に「彼はダメ」と応えた。
あの顔は、世の中の奥様方がぜったいに支持しないと。

もっと昔の話だが、ボスは友人たちとテレビ番組の収録に行ったことがあったそうだ。その時、デビューしたばかりの山口百恵とテレビ局内のエレベーターで一緒になった。山口百恵は、単なる観客であるボスたちにきちんと挨拶をしたそうだ。
「あの子は売れる」と直感したボスは、周りにそう話していた。

小沢一郎山口百恵の「その後」を見ていると、ボスは世論の「鏡」だとつくづく思う。
他にも似たような事例は多々ある。
理由はよく分からない。
爾来、僕は「世の中の人はどう思うだろうか」と悩んだときは、ボスの意見を聞くことにしている。
ほとんど間違えることはない。
間違えるのは、ボスのアドバイスを無視して僕の好みで判断したときだ。

自伝『蒼い時』にあるような家庭生活を送った山口百恵は、1980年、21歳の時に芸能界を引退し、TVドラマ「赤いシリーズ」で共演していた三浦友和と結婚した。爾来、表舞台に出ることはないまま、今日を迎えている。

彼女にはいくつものヒット曲があるが、のびパパが一番好きなのは「秋桜」だ。
楽曲を提供したさだまさしは2000年6月、ロンドン「ロイヤル・アルバート・ホール」でも歌っていた。なぜか、ファンクラブのおばさまたちが大挙して日本からついて来ており、国技館で楽しんでいるのかとの錯覚すら覚えさせるコンサートだった。

秋桜」の歌詞の中で、特に、次のくだりが好きだ。

♪明日 嫁ぐ私に
 苦労はしても 笑い話に時が変える
 心配いらないと 笑った♪

昨日、散歩していて気が付いた。
軽井沢では、コスモスが咲き始めた。
夏は、もうすぐ、終わる。
・・・

コスモスは、のびパパにとって特別な花だ。

結婚した翌年、第一子が生まれた。
夏が過ぎて秋風が心地よい季節になった週末、生後3か月のベイビーを乳母車に乗せて近所に散歩に出た。
歩いて数分のところにある小学校の庭に、ピンクのコスモスが咲いていた。
おだやかな日だった。
3か月ベイビーは、眩しそうに空を見上げている。
僕は、心の中で話しかけていた。
「コスモスは、君の花だ。いくつになっても、君の花だ」と。

人生にはいろいろなことがある。
嬉しいことも、悲しいことも。
実際、いろいろなことがあった。いや、今でも、ある。
だが、すべてのことは、時が笑い話に変えてくれる、きっと。
だから、何の心配もいらない、と、毎日を笑って過ごそう。

コスモスを見るたびに、そう思う。

のびパパ軽井沢日記:#7「御影用水」ふたたび・・・

 

 

 2021年8月22日(日)夜、櫻井泰斗/ユウコ夫妻のYoutubeチャンネル(生配信)では「御影用水」が話題に上り、ひとしきり盛り上がっていた。同チャンネルの「結論」は、「通行禁止」なので「公道以外はご遠慮を」とのことだった。
 本欄『#5ヨーロッパの「運河」に似た御影用水は・・・』の最後を、次の文章で締めくくったのびパパとしては、「えッ?」というのが率直な反応だった。

〈軽井沢を訪れる人にはぜひ、時間を割いて散歩して貰いたい場所の一つである〉

 たとえば、「#5」で写真をお借りした「レジーナリゾート軽井沢御影用水」の公式ホームページには「軽井沢時間を愛犬と共に 御影用水を望む(原文ママ)“水と森のリゾート”」と題された動画が掲載されており、中には宿泊客が愛犬と共に用水に降りてきて、遊歩道(?)を散歩している光景のものもある。同宿泊施設が「御影用水」沿いの遊歩道(?)での散歩を「セールスポイント」にしているのは間違いがないだろう。

 https://www.regina-resorts.com/mikage/

 では「レジーナリゾート軽井沢御影用水」は、当該遊歩道(?)を管理していると思われる「千ヶ滝湯川用水土地改良区」に事前相談をしていないのだろうか? そもそも、あの遊歩道(?)の所有権は、誰にあるのだろうか?

 気になったのびパパは「千ヶ滝湯川用水土地改良区」で検索してみた。          この組織については何の情報も得られなかったが、「太陽の温もり 千ヶ滝湯川用水温水路 ―長野県軽井沢町― 」と題する一文が掲載されていた。著者は「長野県農業農村多面的機能発揮促進協議会」の「才会知利氏」とある。
 だが、この文章を読んでも、前述の疑問は解消されなかった。本文は、かくかくしかじかの歴史の上にある当該温水路を大事にしましょうね、ということに力点がある小文だった。  
 たしかに、太陽の温水効果を高めるために、水深約20㎝の底盤部を黒いアスファルトでカバーしているのだから、ワンちゃんたちが入り込んで、水底をほじくり返したりしたらまずいことは分かる、だが「遊歩道」と思しき用水沿いの小道が「一般の人通行禁止」なのかどうかは不詳だった。

 88-3-18.pdf (jsidre.or.jp)

 のびパパの散歩コースの近くにも、用水が流れているところがある。時には、用水沿いを数百メートル歩くこともある。犬を連れて散歩しているお仲間とすれ違うこともある
 用水の両側には何軒もの別荘が建っている。この道を通らなければ、別荘にたどり着けないのは明白だ。
 また、同じ場所ではないが、用水沿いの道を通らなければ、数十軒の別荘がある小山には到達できないところもある。

 ある時、散歩していて、用水沿いの奥まったところで発見したのが、冒頭の写真にある看板だ。お読みいただけば分かるように、次の文章が記載されている。

〈この道路は、用水の管理用道路です。関係者以外の通行は、ご遠慮ください。
 道路内における、人身、物的事故、火災その他の事故等に関しましては、一切責任を負いません〉

 これらの事実からのびパパは、本件を次のように解釈している。

 まず「千ヶ滝湯川用水土地改良区」は、すべての「事故」について一切責任を負いませんよ、ということだ。
 次に「関係者」という用語で、この道を通ることが不可欠の方々の通行は容認しますよ、責任は負いませんけど、ということだろう。
 「レジーナリゾート軽井沢御影用水」の宿泊客も、通らなければ別荘に到達できない方々も「関係者」なのではないのだろうか。
 そして、もし通行する人の数が増えすぎたり、用水管理に支障が出るようなことをされた場合には、法的権利を行使する権利は保留していますよ、ということだろう。
 つまり「事故」がない限り、「関係者」以外が「通行」しても問題はないが・・・ということなのではないだろうか?

 うーむ。
 毎朝の100分散歩、警告看板の立っている用水沿いは避けた方がいいのだろうか?

のびパパ軽井沢日記:#6バックで駐車は余所者?

 

 

〈住んでいる環境が性格・行動に大きな影響を与えている〉

 と、大上段に構えたが、これは高校時代に『風土』(和辻哲郎、1935年)を読んだときの衝撃を言語化したものだ。
 感情の起伏が激しく、独りよがり、だが、真剣に生きる目的を模索していた青年のびパパは『風土』を読んで、大学で人文地理学を勉強しようと思い立ったのだった(弊著『超エネルギー地政学』「エネルギーフォーラム社」2018年刊、の「はじめに」参照)。

 たとえば・・・。
 ヨーロッパの農民は、一日の労働が終わると鍬や鋤を農地に置いたまま帰宅する、なぜなら乾燥しているので毎日手入れをしなくても錆びることはないからだ、というのだ。
 本当なのだろうか?

 それからおおよそ20年後、筆者はロンドンにいた。単身赴任だった「香港修業生」に次ぐ、二度目の海外だが初の家族帯同勤務だ。
 当時、筆者が所属していた「三井物産」石油部では、ロンドンでの初の海外勤務者は、会社規定で家族を呼び寄せられる3か月後までの期間、まずはイギリス人家庭に下宿することを不文律としていた。代々世話になっているユダヤ人、バーニー爺さんのところに、である。短期間だが、イギリス人の日常生活に慣れるため、とされていた。
 筆者が着任した1982年末、バーニーさんのところは満杯だった。石油部からの研修生は長期滞在していたし、審査部の同期は2日ほど早く着任していた。
 バーニーさんは姪のバーバラさんのところを紹介してくれた。バーニーさんのところからさほど遠くない、地下鉄「コックフォスター」駅から徒歩10分くらいの、いわゆるディタッチド・ハウスと呼ばれる一軒家だった。バーバラさんは数年前に弁護士だった夫を亡くしており、二人のお子さんは、息子さんも娘さんもオクスフォード大学で勉学中だった。
 筆者がお世話になって初めての週末、二人はそれぞれのパートナーを伴ってサンデーディナーにやってきた。バーバラさんが食事の用意をしているあいだ、みんなはカードをして遊んでいた。しばらくして、バーバラさんに「テーブルに」と呼ばれた。子供たちは席を立って、テーブルに向かった。だが、遊んでいたカードはそのままである。散らかったままなのである。
 筆者はびっくりした。えッ? 片づけないの!
 いわば、初めての「カルチャーショック」だった。
 その後の観察で気が付いたのは、当時「ラビットハウス」と揶揄されていた平均的日本人の家屋と異なり、一般家庭でもイギリス人の家は、たっぷりとスペースがあるので片づけなくても困ることはない、ということだった。

 この経験が下敷きとなっているのか、どこに行っても住民の行動と「風土」との関係に敏感になっている。
 たとえばサラリーマンを卒業してから数年、一年の半分ほどを軽井沢で暮らすようになっているが、いくつかのことに気が付いている。日課となったおおよそ100分の散歩と、週に2~3回出かける「ツルヤ」などでの買い物時の観察結果である。
 今日は、そのうちの一つをご紹介しておこう。

 軽井沢にいる人は、「地元民」「別荘族」そして「観光客」と、おおよそ三つのグループに分類できる。
 「別荘族」も、年に数日しか来ない人もいれば住民票を移している人もいる。僕のように「半分くらい」という人もいる。夏の期間だけ「店」を開く人々もいる。さらに最近は、リモートワークの普及と「風越学園」の誕生もあって若い「移住者」も増えており、三グループに分けるのは単純化しすぎかもしれない。
 だが「ジモピー」と筆者が呼ぶ、軽井沢生活の長い人と、都会生活が長く、軽井沢に「来たばかり」の人とでは、行動パターンに大きな違いがあるのだ。

 「ジモピー」は、駐車場で迷うことなく頭から突っ込む。「来たばかり」の人は、間違いなくバックで駐車する。
 理由は簡単である(と、のびパパは納得している)。
 軽井沢では、いや、都会を離れた自然豊かな場所では、駐車スペースからバックで出ることが苦ではないからだ。車も人も少なく、スペースがたっぷりあるので、バックで出ても困難を感じることはほぼないのだ。
 都会では、たとえば筆者の自宅そばの私営駐車場では「頭から駐車してください」との呼びかけ看板があるところでも、人々はバックで駐車している。なぜなら、駐車場は狭く、車も人も往来がそれなりにあり、バックで出ようとすると注意を向けなければいけないところが多すぎて「面倒くさい」からだ。
 ちなみに「頭から駐車してください」との呼びかけ看板は、面した住宅の庭先にある植物に排気ガスが当たるのを避けたい、との希望からなされているものだ。残念ながら、わずかな草花は日々、排気ガスを浴びている。

 別荘地帯を散歩していると、駐車場に2台の車を停めているところが結構ある。しかも、ナンバープレートには同じ数字が並んでいる。1台は「ベンツ」「BMW」あるいは「レクサス」などの高級車で、「品川」など首都圏の陸運局登録である。もう一台は国産車で「長野」登録となっている。
 昨年は「コロナ」禍の中、ハラスメントを避けようと、首都圏のナンバープレートだが「長野県民が運転しています」とのステッカーを張っている車をよく見たが、どうやら「2台所有」が新しいステータスシンボルになっているようである。

 かくて「ツルヤ」で「長野」ナンバーの車を見ても、これすべて「ジモピー」と勘違いしてはならないことがご理解いただけるであろう。「長野」ナンバーでもバックで駐車していたら、おそらく「余所者」と考えていい。決して「ジモピー」ではない。
 だから何だ、と言われたら・・・
 何でもないんだけどね。

 えッ? のびパパはどうしているか、って?
 エヘン、「ツルヤ」ではバックで駐車していますが、「カxx」など空いているところでは、躊躇なく頭から突っ込んでいます。
 はい「半ジモピー」なんです。
 チャン、チャン。

のびパパ軽井沢日記:#5ヨーロッパの「運河」に似た御影用水は・・・

 

 

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(写真は「レジーナリゾート軽井沢御影用水」のものです)

 初めてタイを訪れたのは1975年12月、会社派遣の修業生として香港大学で北京語の勉強を始めた年のことだった。
 たまたまオリエンタルホテルのプール周辺で開催されていた泰国三井物産のクリスマスパーティに参加させてもらった。チャオプラヤ川を渡る風が救いだったが、汗をかきながらのクリスマスは初体験だった。
 その後、再訪のチャンスはなく、30年経った2005年9月、三井石油開発バンコク事務所長として赴任した。
 30年という時間が経っていたが、タイは「変わっていない」というのが率直な印象だった。

 確かに経済発展が街の様相を変えている。高層ビルは乱立し、高速道路の充実が「渋滞」を部分的に解決している。少なくともバンコクに住む人々の暮らしは豊かになっていた。
 だが、1975年に感じた、この国の真の発展のためには「治水」が必要、との思いを変えさせるほどの変化は起きていなかったのだ。

 夏に大量に降った雨が南下し、バンコクの北に位置するチャオプラヤ川流域の町や村を水浸しにする洪水は、数年に一度の頻度で発生している。
 筆者が親しくしていたエネルギー省幹部の実家も、床上浸水ならぬ1階浸水に見舞われ、水が引くまで1週間ほど2階での生活を余儀なくされたそうだ。お見舞いの辞に対しては「何年かに一度はあることだから」とケロッとしていた。

 チャオプラヤ川には、バンコク市内でも「堤防」がない。
「ホンダ」のタイ工場などが操業停止に追い込まれた2011年10月の洪水のときには、王宮や政財界の中枢機構がある中心部への洪水被害を避けるべく、バンコク北部に一時的に土嚢などを積み上げ、溢れる川の水を意図的に東西の田園地帯に流出させたほどだ。

 そもそもタイ語には「堤防」を意味する単語がない。
 タイ語の勉強を始めて間もないころ、不十分なタイ語で先生に「堤防」を説明するのに四苦八苦したことを覚えている。

 中国でも日本でも、おおよそ大きな川には「堤防」がある。
「治水」こそが農業生産力を高め、国庫収入を増やし、一般庶民の生活向上に利するものだったからだ。

 人々は、自然の力に畏怖しながらも、自らの人生のために工夫をこらし、自然を味方につけようと努力し続けている。
 これは、世界全般に共通した現象だろう。

 ところで、軽井沢を歩いたことのある人は、あちらこちらに用水がめぐらされていることに気が付いているだろう。
 その象徴的存在が御影用水だ。
 だが、御影用水が江戸時代の1650年代に建設されたことを知る人はどの程度いるだろうか。

 Wikipediaによると、1650年に小諸藩主から廃村を下賜された柏木小右衛門が、浅間山麓の水源から水を引いて農作を可能とするべく、1653年に建設完了したのが今日の御影用水だ。
 柏木小右衛門の努力で復活した御影新田村は、流域一帯での米生産が増加し、1699年には幕府直轄の天領となったとのことだ。
なお水源は、皆さんご存知の千ヶ滝と湯川である。

 人々の知恵と工夫は留まることがない。
 浅間山麓に降る雨が地下に潜り、数年を経て地上に表れ千ヶ滝や湯川に流れこんでいるのだが、年間平均水温は13.2℃ときわめて低い。
 このままの水温では稲作に適していない。
 春先からでも稲作に使用できるように、水温を上げる工夫がなされた。
 それが1970年に完成した「御影用水」として知られる「温水路」なのだ。

 写真からも分かるように、川幅は広く、水深は浅い。
 ワンちゃんたちが喜んで遊べる浅さだ。
 筆者が「キャボット・コーブ」(現在は移転済み)での、如何にも軽井沢らしい豊かな朝食を楽しんだあと散歩したときも、水底から日の光が反射していて、一幅の絵画を見るような心地だった思い出がある。
 この、心安らぐ全長900メートルの「温水路」は、観光用ではなく、実は降り注ぐ太陽により水温を上げるように工夫されているのだ。

 軽井沢を訪れる人にはぜひ、時間を割いて散策して貰いたい場所の一つである。

 
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のびパパ軽井沢日記:#4軽井沢のクマさん


 

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散歩コースに「熊さん家」と書いた標識がある曲がり角がある。車の通るアスファルト道路から、雑草が道の真ん中に生えている砂利道に入るところである。
砂利道に入って上っていくと左手にブルーベリー畑があるので、僕たちは「ブルーベリー畑の小道」と呼んでいる。
砂利道に入ってすぐそばに「熊川」(仮名)という標識が、奥まったところの住宅へ連なる私道の外にたっている。「熊川」さんが、友人知人が訪ねてきたときに分かりやすいように、曲がり角に「熊さん家」という標識をたてているのだ。

この標識を見慣れているためか、軽井沢のあちらこちらで「目撃」されている熊のことを、僕は「クマさん」と呼んでいる。
たとえばワイフとも次のように、親しみをこめた呼び名で話題にしている。
「高架を走っている上越新幹線に、クマさんはどうやって入り込んだんだろうね」(『朝日新聞』2021年5月8日「新幹線がクマと衝突 軽井沢駅から2キロ、25分遅れる」新幹線がクマと衝突 軽井沢駅から2キロ、25分遅れる:朝日新聞デジタル (asahi.com)
「軽井沢のクマさんは目撃されるけど、他のところのクマさんと違って、人間に被害を与えてはいないんだよね」

なお「新幹線に衝突」したのは、軽井沢町が「さるくま情報」として「5月7日(金)午後6時30分頃、離山公民館から北東へ200m付近」で、さらに「5月8日(土)正午頃、歴史民俗資料館南側(旧雨宮邸)付近」で目撃された、と報じているクマさんだと思われる。

軽井沢町「さるくま情報」には、次のような注意喚起が毎回記載されている。

〈朝夕の散歩や山に出かける際には、必ず鈴など音のでるものを携帯しましょう。特に見晴らしの悪いやぶ付近を通行する際には十分ご注意ください。
また、ゴミ等は夜間、屋内で保管しましょう〉

僕が最初にクマさんを目撃(?)したのは、軽井沢で夏を過ごすようになった数年前、今は閉店してしまった山の上の天空カフェ「アウラ」に出かけたときだった(天空カフェアウラ | Facebook)。

友人夫妻を案内して「旧三笠ホテル」前を通り、「白糸の滝」に続く山道を登っていき、途中で左折してしばらくした時のことだった。不意に、車の前を大きな物体が通り過ぎた気がしたのだ。一瞬のことだったので、何が起こったのか、分からなかった。
「今、何か通ったよね?」
「うん。でも、何だろう?」
会話はそれで終わり、僕は車をそのまま蛇行した山道を走らせていた。
アウラ」では、共に過ごしたバンコク生活のことなどを語り合いながら、美味しいコーヒーを堪能した。
翌日、また「アウラ」に出かけた。友人が忘れものをしたからだ。
その時、「アウラ」に「付近でクマが目撃されました」との標識が立っていた。
昨日の「大きな物体」は、クマさんだったのだ。

ネットで検索すると、次のようなことが分かった。

クマは、それぞれ自分の「縄張り」(食料確保する地域)がある。
春先に生まれてばかりのコグマは、新たに自分の「縄張り」を作らなければならない。
当然だが、社会経験(?)の少ないコグマには、クマの居住地域と人間の居住地域の違いがあることを知らない。したがって「縄張り」を作るべく歩き回っている内に、クマの居住地域を抜け出し、人間の居住地域に入り込んでしまうことがある。
クマは元来、臆病な性格である。したがって、音が聞こえると近づかないように遠ざかる習性がある。
これが前述した軽井沢町の「注意喚起」となっている。

アウラ」での事件後、僕はすぐに「ケイオーD2」に出かけた。散歩するルートは、人間の居住地域だがクマの居住地域に近いため、安心して散歩するための「防御具」を購入するためである。
「散歩するときに音を出す鈴のようなものが欲しいのですが」
「あ、クマ鈴ですね」
店員はこともなげにこう応えた。
そうか「クマ鈴」というのか。地元民には必需品のようだ。
後日、朝7時半ごろ散歩に出かけ「クマ鈴」を鳴らしながら小学生が通学しているところに遭遇し、この感を強くしたものだ。

さらに、住居のゴミ箱から食料品の残骸を見つけると、コグマさんは「自分の縄張りはここだ」と、毎日のようにやってくるのだそうだ。だから軽井沢町が「ゴミ等は夜間、屋内で保管しましょう」と注意喚起しているのだ。

ところで、軽井沢でも「人間が被害にあう」事件が発生した。今年7月19日のことである。
軽井沢町「さるくま情報」は、2021年7月19日16:10に次のように「注意喚起」として報じている。いつもの「目撃情報」ではない。

〈7月19日(月)午後2時半頃、石尊山を登山中にクマに襲われ怪我をする人身事故が発生しました〉

続く「注意喚起文言」は前述したものと同じである。
そして、7月20日15:00に同じ文章で「注意喚起」を繰り返している。「目撃情報」にはない「繰り返し」である。

僕の理解では、これは人間が「クマの居住地域」に無防備に入り込んだ結果発生した事件である。
他人(?)の居住地域に入り込むときは、やはり、それ相応の「敬意」をもって対応すべきだろう。

これは、と海外生活21年の僕は思う。
日本人が海外で一時的に生活するときにも必要なことではないか、と。
どこの国にもそれなりの生活習慣がある。その多くが我々の生活習慣と大きく異なるため、我々はカルチャーショックを覚え、不足不満に感じ、日本人同士が集まると愚痴をこぼしがちである。
だが、僕たちは「お邪魔しています」との謙虚な気持ちで、その国の生活を楽しんだほうがいいのではないだろうか。

クマさん、人間の居住地域にはなるべく来ないでね。
来た場合は、人間が来たら逃げてね。
僕たちも、クマさんの居住地域にはなるべく近づかないようにし、どうしても入り込む場合は「音を出す」から避けてね。
何とかうまく「共生」しようね。

のびパパ軽井沢日記:#3谷間の白百合、今は・・・

 

 

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軽井沢生活を始めて8年目、知らずしらずのうちに自然に目が向くようになっている。

子どものころから観念の世界に遊ぶことに長けていた僕は、小動物や鳥、虫などはもちろん、庭に鎮座している樹木も道端に咲く草花も、おおよそ関心の対象になることはなかった。
たとえば、家を飛び出して外に行っても遊び友達がいないと、戻って将棋盤と将棋の駒を使い、架空の水泳大会を実況中継して遊んでいた。
「第一のコース、古橋廣之進くん。第二のコース、前畑秀子くん。・・・」
でたらめである。
大人になってからも性癖は変わらず、絵画や音楽に接しても素直に楽しむのではなく、背後にある「物語」を探してしまう。誰も真似をしてはいけない芸術鑑賞法である。

軽井沢生活を始め、車を駆っては県内の観光地に足を伸ばしていたころ、一度「善光寺」をお参りしたことがある。その折、隣接地にある、まだ改築される前の「長野県信濃美術館」(現「長野県立美術館」)で、とある欧州人画家の展示画を観る機会があった。
南欧の市街地の風景画だったが、その中の一枚に僕はくぎ付けにされたしまった。
石畳の路地に2階建てのアパートが連なっている。その一つの部屋の、左側の窓だけが開いている。が、右側はきっちりしまっている。路地に人影はなく、熱暑の太陽が空気を圧している。おそらく「シエスタ」の時間だ。
だが、なぜ左側の窓だけが開いていて、右側は閉まっているのだろうか。
右側の部屋でシエスタをしているが、左側には誰もいない。右側の部屋も暑いので、左側だけを開けている・・・?
いや、実は殺人事件が起こっていて、右側の部屋には死体がある。犯人は、左側の部屋の窓を開けて逃げ出した・・・?
絵画を楽しむ人にはどうでもいい話だが、僕は気になって仕方がないのだ。
困ったものだ。

軽井沢滞在中は、午前中、約100分かけて9キロメートル弱を歩くのが日課になっている。戻ってから朝風呂に入り、ブランチを楽しむのだ。現役の人たちには申し訳ないほどの至福の時である。
買い求めた「長野県道路地図」の「軽井沢」のページに、歩いた道を鉛筆でなぞっているが、左半分「野鳥の森」から「追分」「分去れの碑」に至る一帯はほぼ塗りつぶされている。8年も歩けばこうなる、ということだろう。
だが、最近はほぼ4ルートに定まってきた。名付けて「追分ルート」「千ヶ滝ルート」「小倉の里ルート」および「ハルニレテラス・ルート」である。

最近は、どのルートに行っても「自然」が目に入る。
鶯などの小鳥は耳で楽しむだけだが、雉や野兎が行く手を横切ることもある。蝶々やトンボの姿も景色になじんでいる。蝉の鳴き声も、やかましいとは感じなくなった。
最近はマリーゴールドの群生が終わって、白い紫陽花が目にまぶしい。「白い紫陽花」と書いたが「アナベル」という名の、同一種ながら別の花とのことだ。
僕の心の中の「紫陽花の人」は、欧米で生活をしたら「アナベル」と呼ばれるのだろうか、などとくだらないことを考えたりしている。

今日「追分ルート」を散歩していて花を見かけ、思わず「谷間の白百合」と呼ばれた人のことを思い出していた。
10年ほど後輩の、仮にS君としておくが、そのS君の奥さんのことである。
僕が最初のロンドン勤務をしていたころ、S君が研修生としてやってきた。海外勤務の利点は、人によっては「苦痛の種」かもしれないが、人間関係が濃密であることだ。S君ともそれなりの時間を過ごし、お互い、人となりをさらけ出す付き合いをした。
そのS君がある時、1年間の研修期間が終わって帰国したら結婚するという。何でも「卒業旅行」でヨーロッパを回っていたとき、女子大生3人組とパリかどこかで遭遇し、一緒に観光したり、食事をしたのだそうだ。帰国後、S君は3人に記念写真を送った。何と書き添えたのかは聞きそびれた。だが、3人のうち返事をくれたのは、一緒にいたとき物静かで、あまり話をした記憶のない女子大生だけだったそうだ。
「そう、落ち着いていて、目立たないけれど、清楚な人だったんですよ。まるで『谷間の白百合』 のような・・・」

あれから30数年が過ぎた。
「谷間の白百合」はいま、どこで何を思い、何をしているのだろうか?

のびパパ軽井沢日記:#2生まれ変わったら、もう一度

 

 

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旅の醍醐味は「日常」からの離脱だろう。

大昔のことだが、仲人をお願いした高校時代の恩師から「Eがどうしているか、知っているか?」と聞かれたことがある。一浪して東大に入学したものの、インド旅行にでかけたまま音沙汰がないのだそうだ。
あの時代、『何でも見てやろう』の著者・小田実のように海外貧乏旅行に出かける若者が多かった。旅の途中で、たとえばインドで現地の雰囲気に染まり、働くことに「無意味」さを感じ、沈没してしまう者もよくいた。Eもその一人だった。
彼らは「日常」から離脱した旅の途中で、新たな「日常」に捉われてしまったのだろう。

現代日本の旅は、依然として「日常」からの離脱にこそ意味がある。
特に家事を担当している女性陣にとっては、「3S」から解放されることこそが至福の喜びではないだろうか。
「3S」とは「炊事」「洗濯」「掃除」のことだ。
ホテルや旅館に宿泊することで、これらすべての責任を放棄できる。

では「別荘」暮らしはどうか?
たっぷり余裕資金があれば、同じように「放棄」は可能だ。だが、家計を預かる家事担当としては「全面放棄」は心が痛む。そこで、せめて「炊事」だけは、となる。「外食」や「出来合い料理」に活躍してもらうのだ。

軽井沢には「スーパー ツルヤ」がある。
2014年夏、初めてログハウスを借りて3か月を過ごしたとき、まずワインとチーズの豊富なラインアップに感動した。
2015年夏からは、ひょんなことからリゾートマンションの一室を入手し、毎年寒くなるまで過ごしている。「スーパー ツルヤ」は「聖地」となり、冷凍食品のみならず、いわゆる「お惣菜」の潤沢さに驚愕し、野菜・果物・魚・肉、あらゆる食材の質の良さに感激している。

実は、軽井沢生活を始めるまでの数年間、毎年のようにバンコクで「夏休み」を過ごしていた。
バンコクは、43年間のサラリーマン生活のうち21年間を外地で過ごした僕にとって、最後の海外勤務地だった。
ご承知の方も多いだろうが、8月は、東京よりバンコクの方が「涼しい」のだ。
だが僕にとって「旅」の醍醐味である「日常」からの離脱は、良くもあり、悪しくもあるものだった。

「顧問」になって時間に余裕ができてからは、2週間ほどの夏休みが取れた。
バンコクのキッチン付きホテルの一室に滞在し、夏休みを堪能できた。
だが、1週間が過ぎてくると「外食」「出来合い料理」に飽きがくる。電子レンジを使って温めるだけでなく、自分で作りたくなる。
デパートの食料品売り場を歩いていて「黄ニラ」が安価で売られているのを見つけたときは心が躍った。これをホタテと塩炒めにしたら・・! すでによだれが出ていた。
黄ニラをカゴに放り入れ、魚売り場へ足を進めた。ホタテを見つけ「シメシメ」とほくそ笑んだ。が、カゴに入れる前に、思いついた。待てよ、塩がないな。いや、調味料の類が一切ない。
キッチン付きホテルには、鍋・釜の類は揃っている。グラスや皿、カトラリーもある。冷蔵庫も電子レンジも湯沸かしポットもある。だが、当然のことだが、調味料はいっさいない。
これでは料理ができない。
調味料を一式買いそろえて、余ったら全部置いていく? いや、それも何だかなぁ。
かくて、黄ニラとホタテの塩炒めは「幻」と化した。

2015年から毎年、ほぼ半年を過ごしている軽井沢のリゾートマンションは、きわめて面白い作りだ。
120平米ほどの3LDKにベランダが付いているのだが、風呂場がだだっ広く、キッチンが狭い。
風呂場の広さは、息子一家が親子4人一緒に入り、遊ばせながら汗が流せるほど、と言ったらご想像いただけるだろうか。
キッチンは、冷蔵庫、食料品を保存する棚の上に電子レンジ・トースターを設置すると、シェフ一人が活躍できるほどの広さしかない。
これは、通常「炊事」を担当する女性が「別荘」では「温めはするが料理しないぞ」との前提で設計されているからではないだろうか。

軽井沢での「炊事」は、僕の担当だ。
かつては、冷蔵を開けて食材を確認し、3種類ほどの料理を考え出し、作ることを得意としていた。最近は「ツルヤ」で「本日のおすすめ」を使ってメニューを考えることが多くなった。
でも「芸は身を助く」とはよく言ったものだ(違うか!)。
あるパーティの場でワイフは「生まれ変わったら、もう一度結婚したいと思いますか?」と聞かれ、即座に「イエス」と応えていた。
「だって、毎日三度三度の食事を作ってくれる人はそういないから」